MICHI ISHIJIMA - Pride One -

捕食

捕食

生物が自らを生かすために他の命を断ち、自らの体内に取り込む作業を捕食といいます。しかしそれは同時に最大の愛情表現なのではないだろうかと想います。

「食べてしまいたいほどかわいい!」。

あながち嘘や冗談ではない話で、摂取する事によって愛するひとのDNAを体内に取り込み、自分のそれと融合し自分の細胞の一部として自分を形成する。つまりは常に共に生きる事を意味します。甘噛みやキスももしかしたらここから起因しているかもしれない。しかし実際に自身の体内に取り込むには相手を殺傷をしなければならず、実際に行なったとしたらそこには生命体としての部質は残らなくなってしまうがために愛するものを失った寂しさや虚しさが現れる事になります。

昔、うさぎを飼っていました。当時イタリアでその話をすると「で、いつ食べるんだ?」と普通に訊かれていました。それは食用として飼育していなくても普通に食するのだそうです。野蛮という言葉や文明という単語とは違うところで存在する愛するものを食して自らの体を形成するという行為。カマキリは後尾が終わるとメスがオスを捕食する。卵を産むためにの栄養素としてオスは最後のお勤めを捧げることで天命を全うしていますが、ここに愛があるかどうかは定かではありません。

映画『スピーシーズ 種の起源』では新生命体のジル(女性)が種を増やそうとセックス相手を探します。しかしいざという時にその相手が糖尿病とわかり拒んで殺してしまいます。これは捕食する際にもあてはまり、捕食相手が病気であったらその病気を含めて体内に取り込んでしまう事になる。でも見ず知らずの人を捕食しようとするのはよほどお腹が空いていて誰でもいいという話か、綺麗な女性とセックスの大きな代償としてカマキリに喰われてしまうというストーリーになってしまうのでまた別の機会に(苦)

しかし愛するひとを捕食して自分の体内に取り込んでしまいたいと思った時に、例えば相手が病気で死にかけていて、その病気が感染をともなうものであったとしても、捕食までしてしまう程愛する相手なのだからそれはきっと関係ないのでしょう。むしろ死にかけの方が心情的に殺傷しやすいというか待つにも待てるというか(苦)。

対人でなかったら普通に相手の命を絶ってまで命を取り込んで生きながらえていく事をしています。これが自然の摂理とはいえ、動物、植物の命を絶って自らは生きて行くという事をもう少し深く考えてみるのも無駄ではない気がします。遺伝子組み換えのものを食す事は良くないというのは、やはり摂取したものからそのDNAを体内で活用するからであるという事、捕食したもののDNAが体内に及ぼす影響とか。

残念ながら(?)これまでの人生の中で「食べたい」と思った女性はいませんでした。しかし食べられたいと思ったひとはいました。それはただ単にその愛するひとの細胞になり、その身体を形成して悪いところを体内の内側から治したいと願ったからでした。そしてどこに行くにも何をするにもそのひとの中でその身体を見守り、筋肉を動かし、行動をし、細胞としての代謝寿命がくるまでの間を全うしたいと願う事からでした。でも果たして細胞として意思や意識はあるのでしょうか?!

ただ細胞として、、、

ただ細胞として、意識や意思が存在するとしたら、代謝まで全うせずに自殺できる事も出来ます。それは宿主の命を断つ事による自らの細胞としての最期、ガン細胞に変化する事によってそれはなされます。なぜ細胞は自らの最期をかけてガン細胞に変化し、宿主を死に追い込み自らの細胞としての自殺をはかるのだろうか。。。

愛した相手に必要とされなくなった時にガン細胞になるのか、それともその愛するひとの幸せを願う細胞でいられるのか?! それ、細胞レベルの話でなくても同じ事になりそう…(苦)。

 

つづく…(いつになるかわかりませんがw)