MICHI ISHIJIMA - Pride One -

三浦春馬は死んではいない。

三浦春馬は死んではいない。

個人的に三浦春馬さんの一件でみかけるようになった『自死』という単語。しかし調べると2014年には公文書での扱いは自殺ではなく『自死』にするという日経新聞の報道。「自死」とは自分を殺すのではなく自ら死を選ぶということなのだろうか。

木村花さん、三浦春馬さんと続いた有名人の自死。今回も少なくない人々の心のどこかに傷になっているのだろう。それは例え彼らの特別なファンでがなかった人ででも。その昔、岡田有希子さんが他界した時は後追いがかなり報道された。しかしSNS時代となった今の時代はそれを報じることはない。しかし今回も少なくない数が後を追ってしまったと想像する。特に今年のCOVID-19騒動は後追いではないまでも、多くの方々が死を望み、実行に移している。そういう私もほぼ毎日そう願ってはいるものの実行に至らずに今日に至る。彼らと自分の違いはなんだろうかと考える。なぜ彼らは実行に移せて自分は実行に至らず「死ぬ死ぬ詐欺」になっているのだろうかと。

生きることは権利なのだろうか?義務なのか?! この国では生きて馬車馬のごとく働き、生きる限りは税金という名で搾り取られるように馬鹿な政治家の無駄遣いのため、政治や権力にしがみつく老人達の自尊のために搾取されていく。なぜこいつらを生かすために無理して自分が生きているのか?!と想うようになり、夢のなき自分を終わらせたいと思えるようになった。しかし花さん、春馬さんは彼らをとりまく状況の中で選んだ終わらせるということ。自らの活動することをヤメての選択をしたということなのでしょう。そのとき彼らには夢があったのだろうか?! むろんそのときは「夢」のことなんて少しも浮かんではいなかったのだろう。花さん、春馬さんはそれまで考えに考え、悩みに悩み、むしろ考えるというよりもただ単に脳内オーバーヒートするくらいに頭と心を使って消耗してしまい、生きることや生きないことなどの意識ではなく辛い想いをしてしまっていたがため神経が衰弱して考えることすら出来ない状態になっていたのだろう。それによっての無意識の結論だったのでしょうか。

ただ結果としてはそこで彼らが選んだ選択、ひと時の喜びや心の開放などを望みは疲れた心から求めた安らぎだったのでしょう。しかし実際はそんな達成感を得られるまでもなく、これといつて死を意識することもなく、結論として命が絶たれてしまった。実際に自死、そこに至れるという行動がとれるというのは、実際には何も考えない状態でないと出来ないことだとそこに至ることができない自分では痛感しています。実際に行動に移すには後も先も考えない状態、まさに意識の前に行動が先にという状態で、「今」ということすらも考えずに行動しなければ出来ないこと。ほんの少しででも死ぬことによる「何か」があると、そこで考えてしまうことになり行動には移せない。つまりは結論としての死は迎えることは出来ず、私のようにダラダラと生き続けることになってしまいます。そして悶々と死を考える日々は続いてしまいます。

『自殺』とは自分を殺すこと、「殺す」ということ殺人を考えること、しかし殺す相手が自分。被害者と加害者が同じ自分であるということ。それは犯罪!? 一方で『自死』とは死に至ること。

そしてまた、尊厳死という言葉があります。尊厳とは、尊く、そして犯してはならないことであり、日本法の最高の価値基準なのだそうです。

死にたいと願うひとが死ねる世の中、それが尊厳死のある世の中。しかし自殺や自死はその現場が事故物件になってしまったり、電車が遅延して他の人々に迷惑をかけてしまう。死に至るにおいて最後の最後まで他人に迷惑がかかってしまうものは望まれたものではありません。もしも姥捨山があり、自分でそこに赴いて最期を迎えることが出来る世の中であったらなんと素敵な世の中なのでしょう。

しかし姥捨山にコンビニは?!通信環境は?? ごみ収集の日は?病院は?!と、もしかするとそこに集いし自らの死を望む人々は新たなる活路、夢や楽しみが生まれてしまうのかもしれません(苦)。

私の場合はすでに現在の存在価値も見つけられず、これまで経験してきた過去になってしまったことが尊く、それぞれが輝いて素晴らしく、すでに自分で十分といえるだけの生き方をしてきました。常に今が一番幸せ、今が最高であるがゆえに今日死んでも悔いわない。

三浦春馬さんがお亡くなりになられてから映画で、テレビで、音楽でそれまで経験しなかったほどに春馬さんに触れることが出来ています。改めて彼の演技力の高さに引き込まれ、歌のうまさ、声の魅力に聞き惚れています。生きていても亡くなられても映像や記録されたものは生きています。写真しかり。ご病気でお亡くなりになられた志村さんの映像もとても楽しく。観たことのないものは新たな作品であるように楽しめ、新しい発見となっています。ただ残念なのは本当に新しい作品が観ることが出来ないこと。月日を経て、多くの経験を積んで、歳をとっての燻銀の演技での映像が観れないということ。

歳をとってババアになった花さんも観たかった。

歳を重ねるということは生きていないと出来ないことであると改めて知ることができました。